「絵のない絵本」その2
第八夜~十五夜へ

その1 「はじめに」~第七夜



はじめに

大きく心をゆり動かされ感動したときに、手や舌がうまく動かなくなるのは不思議なことです。だからわたしはそんなとき心にうかんでくることをちゃんと言葉にだしたり、そのまま絵にしたりできません。
そのくせわたしは画家で、わたしの目は自分にそう言って聞かせる、わたしのスケッチや手すさびをみてくれた友達もみんなおなじことを言ってくれます。

わたしは貧しく、たいへん細い通りぞいに住んでいましたが、光がさしてこないといったことはありません。わたしの部屋は高い場所にあって近所の屋根ごしにずっと遠くまで見晴らすことができます。
この街にすみはじめた最初の数日は、元気もなくすごく寂しい思いをしました。前にすんでいたところからみえたような森や緑の丘のかわりに、見えるものといったら煙突がたちならぶ風景だけでしたから。

それに友達も一人もいませんでしたし、あいさつを交わすような知り合いさえいなかったのです。

そしてある晩、わたしはおちこんだ気分で窓ぎわに腰かけ、やがて窓をあけ、外をながめました。あぁ、わたしの心はどれほど喜びのあまり踊ったことでしょう。とうとうなじみの顔を目にしたのです。
丸い親しみのこもった表情、故郷でもよくしっていた親友の顔、そう、それはわたしの顔をのぞきこんでくれていたお月さまでした。
まったく変わらないやさしい昔ながらのお月さまで、荒地のやなぎの木々のあいだからわたしを見下ろしてくれていたときに見せてくれたのとまったく同じ顔をしていました。わたしは何度も何度も、お月さまにむかって投げキッスをしました。
お月さまはわたしの小さな部屋まで照らしだし、毎晩、夜にでてきたときには少しのあいだわたしの部屋を照らしだしてくれると約束しました。
お月さまはちゃんと約束を守ってくれました。照らし出すのが短い時間なのは残念でしたけど。そして照らし出してくれたときはいつも、前の晩やその晩に目にしたことをあれこれ話してくれました。

「私が話したことをそのまま絵にお描きなさい」 これがお月さまがわたしに言ってくれたことです。「そうすれば、とてもすてきな絵本ができるでしょう」 わたしはその指示にいく晩も従いました。
そうした絵から、わたしなりの新しい「千一夜物語」を作りあげることもできるかもしれません。でもつまるところ数があまりに多すぎるんです。
ここでわたしが手にした絵は、手当たり次第選んだものではありません。
お月さまがわたしに対して話してくれた通りの順番です。才能ある偉大な絵描き、詩人、音楽家の何人かは、この材料からもし望めばもっといいものを作れるかもしれません。わたしがここに描いたものは、あわただしいスケッチといったもので、せかせかと紙にかきつけ、そこにはわたしの考えもいくらか混じっています。というのもお月さまは毎晩わたしのところに来てくれたわけではありませんし、時には雲がお月さまの顔を隠してしまうこともあったのです。


第一夜

「昨晩」、わたしはお月さまが口にしたままを書いています。
「昨晩、私はインドの雲ひとつない空にいて、私の顔がガンジス河の水面に映し出されていました。私の光は、下の方でまるでカメの甲羅みたいにこんもりしているバナナの太い絡み合う枝のあいだまで照らし出しました。そのこんもりとしているところから、カモシカのように身軽でイブのように美しい、一人のインド人の娘が飛び出してきました。
このヒンドゥーの娘は立ちすくんでいて、見た目は軽やかでとても美しく、それでいてまわりの闇からははっきりと目立ちました。彼女の繊細な表情から、どうしてここにきたかを読み取ることが出来ます。下をはう、とげだらけの植物が彼女のサンダルを破りましたが、そんなことには全然かまわず彼女は先へといそぎました。

乾きをいやすために河へとやってきたシカは、彼女が手にもえさかる炎をもっていたので、びっくりして飛びのきます。彼女はゆらぐ炎が消えないように手でおおっていましたから、その細い指先には血管がすけてみえました。河のそばまで降りてくると、炎が水面に映りました。映った炎は河の流れにそって流れていきます。
炎は前後に大きくゆらいで、今にも消えてしまいそうでしたが、まだ燃えつづけてしました。少女の黒くかがやける瞳は、長いシルクのようなまつげで半分かくれていましたが、真剣なまなざしで河に映った炎を追っています。彼女は知っていました。もし見えている限り炎がもえつづけていれば、彼女のいいなづけはまだ生きているということを。ただもし炎がとつぜん消えてしまえば、彼は死んでしまったと。

炎はしっかり燃えつづけ、彼女はひざまづき祈りました。すぐわきの草のなかには斑点のある蛇がいましたが、彼女はそんなことは気にかけません。彼女が考えていたのは、インドの神様といいなづけのことだけでした。「生きてる」 彼女はよろこびのあまり叫びました。「生きてるのよ」 山々からはこだまがかえってきます。「生きてるのよ」 

第二夜
「昨日」、お月さまはわたしに語りかけます。「四方を家々にかこまれた小さな中庭を私は見下ろしていました。
中庭には一匹のめんどりと十一匹のひよこがいます。一人の小さなかわいい女の子が、そのまわりをとびはねながら走りまわっていました。
めんどりはびっくりして、鳴きさけびます。そして羽をおおきくひろげ、ひよこたちをかばいました。すると女の子の父親が家からでてきて、女の子をしかりつけました。私は空を動き、それっきりそのことを忘れていました」

「でも今晩、数分前のことです。私は同じ中庭を見下ろしていました。あたりいちめん静まりかえっていましたが、とつぜんあの小さな女の子がまた出てきました。しずかに鶏小屋にしのびよるとかんぬきをはずして、めんどりとひよこがいるところへと入っていきます。めんどりとひよこは大声をあげて止まり木から飛び降り、びっくりぎょうてんして走り回っています。そして小さな女の子は、そのあとを追いかけまわしているのです。

私には、鶏小屋の壁の穴からこの光景がはっきりと見えました。私はこのわがままな子供にすっかり腹をたてて、父親が家からでてきて昨日よりひどくしかりつけ、腕をきつくつかんだときには嬉しくおもったほどです。女の子はうなだれました。その青い目にはおおつぶの涙があふれています。「ここで何をしてたんだ」 父親はたずねました。女の子は泣きじゃくりながら答えます。
「きのうおどかしたから、めんどりさんにキスしてあやまろうと思ったの。でもこわくて、お父さんにはいえなかったんだもの」

「父親は無垢な子供の額にキスをしてやりました。もちろん私もその子の目と口にキスをしましたとも」



第三夜
「向こうの街角のせまい通りで、あんまりせまいので私の光も家の壁にそって一分ほどしかとどかないところなのですが、その一分でも私にはどんなことが起きているかをみるには十分です。
そのせまい通りで、私はひとりの女性をみました。十六年前にはその女性も子供で、田舎の古い牧師館の庭であそんでいました。バラのいけがきもかれ、花もしおれていましたが小道まで生いしげり、とげのある枝をりんごの木々の枝にまでのばしていました。
あちこちでバラの花がいくつか咲いていましたが、よくいわれるところの花の女王というほどではありません。ただ色と香りはなかなかのものでしたけど。牧師の小さな娘のほうが、私にとってはずっと愛らしいバラにおもえました。その女の子はおいしげった生垣の下にこしかけて、使いふるされてぼろぼろになった人形にほおずりをしていました」

「十年後、ふたたび彼女をみました。はなやかな舞踏室にいたのです。お金持ちの商人の美しい花嫁となっていました。私も彼女の幸せを祝福し、静かでおだやかな晩には彼女のもとに訪れたものです。だれも私のすきとおった目としずかなまなざしに気づく人はいなかったのですが。
それにあの牧師館の庭のバラのしげみのように、私のバラも伸び放題になっていました。日常生活にも悲劇はあります。今晩その最後の一幕を私はみたのです」

「そのせまい通りの一軒の家に彼女は横たわっていました。死にいたる病でした。
冷酷な大家がやってきて、寒さから彼女を唯一守ってくれるうすい上布団をひきはがし、『起きろ』といいました。『おまえの顔をみるとぞっとするくらいだ、さっさと起きて着飾って、おれのところに金をもってこい。じゃなきゃ道端にでもほうりだすぞ、いそげ、起きるんだ』 彼女は答えました。『あぁ、死がわたしの胸をむしばんでるんです。どうか休ませてください』 しかし大家は彼女を無理やり起し、化粧させ、髪にはバラのかざりをさし、窓際の椅子にすわらせました。そしてそばにろうそくを一本ともして、出て行きました」

「私は彼女をみましたが、両手をひざにのせ身動きひとつせず座っていました。風がふき、開いた窓が大きな音をたてて閉じ、窓ガラスが一枚こなごなにくだけました。でも彼女はぴくりともしません。カーテンに火がもえうつり、炎が顔をてらしだします。私には彼女が死んでいるのがわかりました。開いた窓の側に死んだ女性が座っていて、それは原罪にたいする説教になっています。牧師館の庭から生えた私のかわいそうなしおれたバラ」


第四夜

「今夜私はドイツ演劇が上演されるのをみました」 お月さまはそう語りだしました。

「そこは小さな町でした。ある馬小屋が劇場になっていて、そうです、馬がいるところもそのままで、特別見物室になっていました。そして木でできていたところは全て色紙でおおわれています。天井からは鉄でできた小さなシャンデリアがぶらさげられていて、豪華な劇場みたいに合図のベルが聞こえると、大きな逆さになった桶がシャンデリアの上にかぶさり、まるで天井に消えていくかのようにみせていました」

「チリン、チリン」とベルがなりひびき、鉄でできた小さなシャンデリアはとつぜん半ヤードほども持ち上げられ、桶のなかに姿をけしました。劇がまさにはじまろうとしている合図です。
若く高貴な生まれの男とその妻が、たまたまその町をとおりかかって、観劇におとずれていました。そのために小屋は人でいっぱいでした。ただシャンデリアの下だけには、噴火口みたいにぽっかりとスペースができていましたが。ろうがぽたり、ぽたりと落ちてくるので、誰もそこには座らなかったのです。

小屋はあまりに暑苦しく、すべての小窓があけっぱなしになっていたので、私は全てを見とおすことができました。男も女も召使たちは外にたっていましたが、すきまから覗きこもうとしては、中にいた本物の警官に警棒でおどされています。
オーケストラの近くに高貴な若い二人のカップルが、古いひじかけいすに腰かけているのが見て取れました。その席はいつもならば、町長と奥さんに敬意を評して提供されているものでした。でも町長夫妻は今日はまるでふつうの町民であるかのように、木製のベンチでがまんしなければなりません。
町長の奥さんは、しずかにひとりごちました「上には上がいるってことを知らなくては」 そしてこのできごとが、全体のなりゆきにいっそうお祭りらしい雰囲気をもたらしていました。シャンデリアが小さく動き、のぞいていた連中はこっぴどく怒られ、そして私も最初から最後まで劇をみましたとも」

第五夜
「昨日」お月さまは話しはじめました。
「私はパリの大騒ぎを見下ろしていました。私の目は、ルーブル宮殿のある部屋でとまりました。一人の下層階級のぼろを身にまとった老婆が下働きのあとについて、広いがらんとした王座のある室へと入っていきます。ここが老婆が見てみたいと思い、見ると心に決めていた部屋でした。
この部屋にまでくるのには、ちょっとした贈り物やおべんちゃらをたくさんつかわなければなりませんでしたが。彼女は自分の細い手を組み合わせ、教会にでもいるかのように畏敬の念にうたれ、あたりをみまわしました」

「ここ」と言葉をもらすと「ここだったのね」と王座の方へ近づいていきました。王座からは金のレースの縁取りのすばらしいビロードがたれさがっています。「そこ」と彼女は感動をこめた声をもらしました。「そこなんだ」 そしてひざまづき、紫のカーペットに口づけました。私は彼女は本当に泣いていたと思います。

「でもこれが当時のビロードだったわけじゃないぜ」と召使は声をかけ、その口元には笑みがうかんでいました。
「そうなんでしょう。でもまさにここがその場所だったのね」 老婆は答えました。「それにこんな感じだったにちがいないわ」「そうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」と召使。「窓という窓は割られていて、ドアというドアはちょうつがいから壊され、床には血だまりができてたからな」「でもあなたがなんと言おうとも、わたしの孫はフランス王座で死んだのよ、そう死んだ」老婆は悲しげにくりかえしました。
私はそれ以上何かが語られたとはおもいません。二人はホールをでていきました。たそがれは闇となり、私の光がフランス王座のすばらしいビロードをいっそう明るく照らし出しました。

「さて、このかわいそうな老婆はだれだったと思いますか? 聞いてください、これからそのお話をしますから」

「7月革命の、もっとも輝かしい勝利の日の夕方に起こったことです。全ての家が要塞になり、全ての窓が胸壁となっていました。民衆はチュイルリー宮殿を急襲しました。戦う人の中には女性や子供でさえみてとれました。
かれらは宮殿の部屋やホールへとなだれこみます。ぼろぼろの上着をきた貧しい少年が一人、大人の反乱軍にまじって戦っていました。銃剣で何箇所にも傷をうけたのが致命傷になり、少年は倒れました。それは王座のある部屋でのことでした。
群集は血まみれの少年を、フランス王座に横たわらせました。傷にビロードをまき、血が紫のカーペットにひろがり、そのありさまはまるで絵のようでした。豪奢なホールで、戦う人たち。床には引き裂かれた旗があり、三色旗が銃剣の先ではためいています。
そして王座にはかわいそうな少年が青ざめた顔つきで、目は空をみつめ、四肢は死の苦しみでもだえ、胸をはだけ、そのみじめなぼろぼろの服は銀色の縁取り刺繍があるすばらしいビロードで半分覆われています。少年のゆりかごでは、一つの予言がされていました『この子はフランス王座で死ぬことになるでしょう』 母親の胸には第二のナポレオンの夢が浮かんだことでしょう」

「私の光は、その少年のお墓の花にキスをしました。そして老婆の額にもキスをした今夜、夢の中では彼女の前にあなたが書いたかもしれない絵が浮かんだことでしょう。そうフランス王座にすわった貧しい少年の絵が」 

第六夜
「私はウプサラにいたこともあります」お月さまは言いました。
「草もまばらな大平原と不毛の地を見下ろしていました。蒸気船が魚たちをけちらしているとき、自分の顔がチュリス川に映るのをみました。私の下ではさざなみがたち、いわゆるオーディン、トール、フリの墓の上に長い影をなげかけました。
丘をおおうまばらな芝には、名前が書かれていました。ここには記念碑はありません。旅人が記念に自分の名前を刻むものもないのです。表面に名前が書けるような岩肌もありません。したがって訪れた人たちはそのために芝生に名前を書くのです。地の肌が文字の形となって、名前となるわけです。こうした名前は丘全体にみてとれました。これは永遠にのこるといってもいいでしょう。新しい芝生がはえてくるまでは」

「丘の頂には、一人の男、詩人がたっていました。広い銀の縁がついた杯ではちみつ酒をあおると、ある名前をつぶやきました。風に秘密にしておいてくれるよう詩人は頼みます。
でも私はその名前を聞いてしまいました。私にはそれが誰だかわかりました。伯爵の冠がその名前にはきらめいています。だから詩人はその名前を大きな声で口にしなかったのです。私は詩人の冠がかれの名前をひきたてていることを知っていたので微笑みました。
貴族のエレノラ・デストは、タッソの名前にむすびついています。そして私はどこに美しきバラがさきほこるのかも知っていました」

そうしてお月さまがしゃべったとき、雲がひとつわたしたちの妨げになりました。詩人とバラのあいだも雲がさまたげなければいいのですが。


  (荒俣宏さんの訳本より拝借)
●ウプサラ(スウェーデン南東部の町)
●オーディン、トール、フリーガ(北欧神話の神々)        
●エレノラ・デスト(フェラーラの公女、タッソが悲恋をささげた)
●タッソ(1544~95 イタリアの叙事詩人)

第七夜
「波打ちぎわには延々と、ナラとブナの森がつづいていました。この森は生き生きとして、いい香りがしました。春になると何百羽のナイチンゲールがその場所を訪れます。常に姿をかえる海にたいへん近くて、海と森のあいだには広い街道がはしっていました。馬車が次から次へと通っていきます。ただ私はそれを追いかけることなく、視線は一点にくぎづけです。そこにはフン族の墓があり、スローやリンボクが岩々のあいだに生い茂り、ここにこそ本物の詩が存在しているのです」

「人々はいったいこの詩について、どう思っているのでしょう? 昨晩、夜を通してここで語られ、私が耳にしたことをお話しましょう」

「最初に、たくさんの荷物をつんだ二人がやってきました。『立派な木々だな』片われがいうと、『確かに、一本から十荷はたきぎがとれるな』と相棒が答えました。『今年の冬も寒そうだし、昨年は一荷十四ドルだっけ』そして二人は去っていきました。『ここらの道はひどいね』やってきた他の男がもらしました。
『まったくこういった木々のせいだよ』隣の席にすわっていたものが答えます。『風がぬけていかないからな。風は海のほうからしかこないんだ』、そしてその二人も去っていきました。
駅馬車がガタガタ、音をたてながらやってきます。このような絶景の場所にさしかかっているのに全員寝ています。御者は警笛をふきました。ただこんなことを考えていたのです『おれはなんて笛をふくのが上手いんだろう。それにこの場所ときたら一段といい響きだな。ここにいるやつらも気に入っただろう』そして馬車の姿も見えなくなりました。
それから二人の若い連中が馬にのってやってきました。血気盛んな若者たちだな、と私は思いました。そしてかれらは、モスグリーンの丘と深い森をみて笑みを浮かべます『粉引小屋のクリスチーヌとここを歩くのも悪くはない』片方がそう口にして、二人は疾風のごとく去っていきました。

「花の香りが辺りにただよい、風もおちつき、まるで海も深い谷の上に広がる空の一部になってしまったかのようです。一台の馬車が通り過ぎ、6人が中にすわっていました。4人は寝ていて、5人目は自分の新しい夏の上着が自分にすばらしく似合うだろうなと考え、6人目は御者の方をむき、向こうに見える石が積んであるのは何かめずらしいものかと尋ねました。『いいや』御者は答えました。『ただ石が積み重ねてあるだけでさぁ、あっちの木々は特別ですが』『それはまたどうして?』『どうして特別か教えましょうや。冬に雪がどっさりつもると、道がぜんぶ隠れて何もみえなくなって、その木々が目印として役立ってわけです。あれを目印にするんで海につっこんでいかなくてすむってわけです。ほら、どうして特別かおわかりになったでしょう』」

「それから、画家が一人やってきました。一言も話しませんでしたが、目は輝いていました。
画家が口笛をふくと、ナイチンゲールたちも以前より大きくさえずりました。『静かに』怒ったようにいうと、かれは全てのものの色と場所を正確に書きとめました。青、薄紫、こげ茶。『これはすばらしい絵になるぞ』とふともらしました。画家は鏡に映ったかのようにその景色を描きます。描いているあいだは、ロッシーニのマーチを口笛でふきました。

一番最後にやってきたのは貧しい少女です。運んできた荷物をおろして、フン族の墓のところで一休みしています。青白い整った顔で、森の方に耳を傾けています。目はきらきらと輝き、海と空を熱心にみつめていました。両手を組み、お祈りをしていたように私は思いました。『父なる神よ』。彼女は自分でも自分の中にひろがる感情を理解できませんでした。ただ私は、その瞬間が、その美しい自然の風景が、彼女の記憶に何年ものあいだ生き続けることを知っていました。それも画家がさまざまな色をつかって紙に描く絵よりも、もっと生き生きと、そしてもっと本物らしく。夜明けの光が彼女のまつげにキスをするまで、私の光は彼女を照らしつづけました」

「絵のない絵本絵のない絵本 絵本2」その2 第八夜~十五夜へ